2011/04/09(土) 14:49|震災

自分ができること

  自分が何ができるか。地震の直後から多くの人が考え続けているようです。私も、最初、自分にできる多くのことがありながら(あるように見えながら)優先順位がわからない、と思いました。結局のところ、目の前のできることをやっていくしかなかったのですが。それぞれの場所で、それぞれの人がいろんなことをしているでしょう。以下は私の場合です。

 地震の翌日は、まだ原発も爆発していなかったし、津波被害もよく知らず(ラジオは聞いていましたが、停電でテレビもネットも見られませんでした)、今思えばわりと明るい気持ちでした。公衆電話に行くついでに歩き回って情報収集。外出のたびに何か「プチ人助け」できておかしいくらいでした。簡単なところでは、順番を待っている人に公衆電話のかけ方を教える。災害のため公衆電話が無料でかけられるようになっていましたが、電話のかけ方が電話機によって違ったのです(お金を入れずに受話器を取るとすぐつながる/いったんお金を入れるとつながる。電話を切ってからお金が戻ってくる/お金を入れてから緊急の赤いボタンを入れるととつながる。/この3パターンがあったようです)。
 迷子の受験生も案内しました。山形の女子高生。岩手の大学に受験に行く途中、仙台駅で地震に遭い、一晩を数百人の人と仙台駅地下で過ごしたそうです。その後「近くにいくつも避難所があるから」と地図を渡されて出たそうですが、初めての街で地図一つで避難所にたどり着けるわけがありません。山形の実家にも電話が通じない(最初の数日間、東北地域同士は全く電話が通じませんでした)。地震以来パン一つしか食べていないと言うので、とりあえず私の自宅でリンゴを食べて休んでもらいました。その後、電話が通じた祖父に「タクシーで帰ってこい」と言われたというので、仙台駅方面に歩いて送りました。
 後は、近所の避難所(小学校)に野菜やお米、灯油を持って行ったり、持っている食料を近所で分け合ったり。電気も水も出ず大きな余震も続いてたため、近所のほとんどの人が避難所に行っていました。野菜もお米も近所の人(避難している人たち自身)が自宅から避難所に運んでいました。そこには4、5日経っても外部(他県)からの支援は届かず、また、「お鍋が一つしかなくて、たくさん作れない」と言っていました。ただ、ここの避難所では、ライフラインが復旧するとみな少しずつ家に帰っていきました(ガスは4月9日現在、まだ出ませんが。隣接する地区でガス管がだいぶ破壊されているため、自宅周辺は復旧の気配もなしです)。

 3月14日に自分の子どもを関西に難させた後は、ボランティア登録をして沿岸に入ろうか、それとも近所を回ろうかと思っていました。しかし、交通手段も復旧しないまま、福島原発の状況は悪化していきました。物流もライフラインも復旧しない。3月25日のブログで書いたように、いろいろな葛藤がありましたが、15~17日に仙台と近郊の子どもたちを中心に交通アクセスの良い新潟経由で避難させました。

 そして地震から10日余。新潟滞在から仙台に戻って、さて、何が必要かと考えたとき、中・長期的観点から「場づくり」だと思いました。最初のブログに書いたように、仙台では、みな「沿岸部に比べたら仙台はたいしたことがない」と言い続けていたので、いずれ気持ちを吐き出す場所が必要になると思いました。自分自身が、誰かに話をしたくなっていました。それから、地震直後から支援に走り回っていた友人・知人たちがほっとする場所も必要になると思いました。他にも「場づくり」が必要な理由はいろいろあります。また、これは普段、フェアトレード商品を販売している私のネットワークの中で始められることでした。
 「場づくり」について書こうとしのですが、前置きが長くなりました。「場づくり」については別投稿します(出し惜しみしているわけではないです!)。
この記事のURL:http://himar-diary.jugem.jp/?eid=16



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