2011/07/27(水) 14:35|震災

せんだいコミュニティカフェ準備室

  4ヶ月間以上本当に揺れっぱなしですが、ここしばらく、また余震の回数が増えている気がします。
 なかなか報告できていませんが、4月13日のブログに書いたように「コミュニティカフェをつくろう」と仲間たちとミーティングを重ね、まずカフェイベントを応援したりしてきました。これは、パレスチナ・オリーブの活動とは別に皆川が個人的にかかわっています。
 震災直後から、既存の小さなカフェが「避難所として、情報と物資の交換の場として、話をする/聞く場所として」大事な役割を果たしてきました。現在、人々が直接顔を合わせ、語り合い癒される場がますます重要となっています。
 文化・暮らしの復興の拠点として、人々が学び合い発信できる「場」をつくりつないでいきたい。実店舗のコミュニティカフェをつくろうと、いま、資金を募っています。よろしくお願いいたします。
 口座記号番号:02240-4-133768  加入者名:カフェ・パーチェ

 口座名は「カフェ・パーチェ」ですが、現在、「せんだいコミュニティカフェ準備室」の名前で活動しています。(ブログは作ったばかりでまだ中身がないです。これから掲載していきます)

 カフェの場所については、街中で安く借りたい、ということを別にしても(←重要ですが)難航中。飲食店の廃業による空きも出てきているのですが、震災の影響で物件の判断が難しくなっています。どの建物も大なり小なりの被害を受けていますが、壊すところ、補修に入るところ、無理に使うところ(?)などがあります。例えば「広さは少し足りないけれど場所はいい、価格も手頃。でも、ビルが傾いている、、、」というとき判断に迷います。

 最近の動きをちょっと紹介します。

(1)沖縄ナイト
 7月14日、たまには放射能フリーご飯ということで、第1回目の沖縄ナイトをやりました。京都の友人が関西でカンパを集めてくれて、それで沖縄・伊江島のお野菜を買う、というしくみになっています。
 特に小さな子どものいる家庭で、(放射能汚染地域からの食材ばかりで)買える食材がない、何を食べたら良いのだろう、、、とストレスをためている人たちがいます。また、「仙台は沿岸地域に比べたら何でもないから」と頑張り続け、沿岸支援にも行って、疲れをためている人もいます。
 そこで、「一食でも安心して、楽しんで食べてほしい」そんな気持ちで、関西の友人が企画し、野菜代金のためにカンパを集めてくれました。
 1回目なので、まず、コミカフェ準備室を中心としたメンバーで、沖縄音楽を聴きながら、もずく、アーサ汁、ゴーヤチャンプルー、ソーメンチャンプルー、島らっきょう、ミミガー、ラフテー、サーターアンダーギーなど、書ききれない沖縄料理を存分に楽しみました。私にとって、自分が楽しむ企画は震災後初めてでした。オリピンビールなども飲みながら、交流を深めるいい機会になりました。
 お野菜は「わびあいの里」のスタッフの方から届きました。阿波根昌鴻さんの思いからつくられたところです。阿波根昌鴻さんについては、ぜひ岩波新書の名著、『米軍と農民』をお読み下さい。豊かな土地を米軍に取られ、立ち上がった人々の記録です。パレスチナの人々とも重なります(ところで奇遇にも、若き阿波根さんが学んだ京都の一燈園で、いま、再避難中の私の息子が学んでいます)。
 2回目以降は、親子で参加できるような企画も立てて行きます。

(2)ぶんぶんカフェ
cake
  7月17日の第4回ぶんぶんカフェ。「せんだいコミュニティカフェ準備室」からの差し入れという形で、石巻で被災されたカフェ「茶ろん もも」さんに作って頂いた「空豆とクリームチーズのパウンドケーキ」(写真)を持って行きました。もう、おいしくって、、、。場の雰囲気もほんわかしました(「茶ろん もも」さんの「福幸の芽」ついてなどは、また別投稿します!)。
 ぶんぶんカフェは、震災前の2月、第2回東日本6ラプサミットで誕生した集まりです。震災後は、放射能が不安だけれど話ができる人が周りにいなくって、、、という人たちが、何でも話ができる貴重な場になりました。
 ぶんぶんカフェに限らず、震災後のカフェイベントで、パレスチナ・オリーブへの支援で頂いた紅茶、コーヒーなども使わせて頂いています。

(3)暮らしのシェア
 来週から、およそ月に1回。わすれンTVの一つ「暮らしのシェア」に、仙台コミュニティカフェ準備室が協力していきます。震災以来、生産者や個人店主がどのように対応してきたかを伺いながら、これからの生活のあり方を考える連続トークです。
 「3がつ11にちをわすれないためにセンター」は、震災で、一人一人の市民が何を体験し、どう行動してきたかを記録していま。普通の暮らしの中に襲ってきた震災。それが見えるいい記録だとおもいます。県外の方にもぜひ、見て頂きたいです。


以下、通信『ぜいとぅーん』45号(6月3日発行)から、一部抜粋・修正したものです。

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編集後記:御礼

 パレスチナ・オリーブへ物資やお見舞い、応援メッセージをくださった皆さま、どうもありがとうございました。そして、皆様とのつながりや皆様からのご注文が励みになることを改めて実感しました。宅配便が再開して多くのものが届き、正直、どうしよう?と思ったこともあったのですが、どれも有効に使わせて頂くことができました。本当にどうもありがとうございました。

物資
 →パレスチナ・オリーブの周辺で(スタッフ、友人・知人)
 →カフェを通じて必要な方へ(沿岸地域から仙台への移住者など)
 →イベントやミーティングの場のお茶菓子に
 →知人を通じて沿岸地域へ(石巻市、気仙沼市)

資金
 →友人・知人たちがサポートしている沿岸地域支援活動経費として(石巻市、大槌町)
 →コミュニティ・カフェ準備金として

 道路が少しずつ復旧しガソリンも手に入るようになり、仙台近郊から個人的に沿岸地域の友人・知人を訪れサポートしている人から話を聞くようになりました。被災地では、日々必要なことが変わるので、必要な物を必要なときに必要な場所に届けることの難しさがよくわかります。 そして、結局、大きな団体より個人のつながりの方が小回りが利くので、宮城県では被災者が被災者をサポートしているような状況です。「明日、行ける」と思ったときに連絡してそのとき必要なものを買って持っていく、そんなことが一番いいようでした。
 皆様から頂いた物資やカンパの一部を、(自らも被災者である一方で自腹を切って活動している)宮城の友人・知人による沿岸サポートに回させて頂きました。パレスチナ・オリーブ自体では直接の沿岸支援は行っておりませんので、現在、沿岸支援のための物資・カンパは募集しておりません。

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今日のこぼれ話:知人から、震災後にマンションの立体駐車場からしばらく車を出せなかった、という話を聞きました。まだ車を取り出せていない立体駐車場もあるのだとか。確かに、停電の間は動きませんし、故障しても直すのが大変そうです。でも、話を聞くまで思いつきませんでした。そういうことが数多くあるんでしょうね。

この記事のURL:http://himar-diary.jugem.jp/?eid=27


2011/07/12(火) 13:35|震災

復興需要?

  地震から4ヶ月。私にはあっという間でした。

 前回ブログを書いてから、1ヶ月以上経ってしまいました。
 6月初めにパレスチナ・オリーブの通信『ぜいとぅーん』を発行、半ばに新シーズンのオリーブ商品が入荷してご予約順に荷造り・発送で大忙し。そんな日常と、地震・津波・原発事故というトリプル災害の非日常が同居している日々です。余震もまだ続いています。10日の地震は、三陸沖が震源で長く揺れて、小さくても津波があって、、、本震を思い起こさせる嫌な揺れでした。
 しかし、仙台の街は一見は何ともなく、むしろ県外からの出張サラリーマンの皆さんでにぎわっているという奇妙な感じです。

 3月、4月は夜7時以降は街に誰もいない状態で、飲屋街もひとけがなく、つぶれるお店も出始め(余震もひどくて、交通機関も復旧途中でみなさっさと帰ったし、なにしろ4月半ばまで飲食店のガスも出なかった)、地元新聞にも「”震閑”仙台・国分町正念場 スナック・高級店直撃」という記事が出ていました。その中で「復興で建設関係の仕事が入ってくるまでの辛抱」というお店の方のコメントがありましたが(記憶なので不正確です)、そんなにうまくいくかな、、、と心配していました。
 ところが。いま、仙台駅前も国分町も、出張サラリーマンであふれています。スーツ姿か作業着姿で、牛タン屋さんを覗き込んでいたりしているので、いかにも県外者。キャバクラなども大繁盛だと聞きました。新聞によれば、建設や保険関係が多いそうです。そして、この様子を見て「仙台はたいしたことがなかったのですね」と言われてしまう。仙台駅は天井が落ちたし(仙台駅の補修はまだ続いています)、仙台〜東京の新幹線がつながったのは4月末なんですけど、、、。
 前にも書いたように、全国のガス局の皆さんが鳴子温泉に泊まって仙台に通い、ガス管を直してくださいました。いまも、全国の行政機関の方が応援に来ています。もちろん、長期で沿岸地域に入っているNGOも多くありますし、短期で支援に訪問してくださる方も多く、仙台でお会いしたりしています。この辺は後日、別投稿します。

 でも、仙台市内はかなり「戻ってきた」ことになるのでしょう。仙台市内の二つの大きなアウトレットモールが6月中に再オープン(津波で1Fが全て水に浸かった仙台港のアウトレットモールも)。仙台駅前のジュンク堂もやっと、先週末に移転・再オープン。仙台港の倉庫をやられ、翌日配達ではなくなっていた(二日かかっていた)アスクルも、そろそろ一日で配達できるようになるようです。仙台空港もやっと電気が来て、7月下旬に空港全体が再オープン予定のようです(仙台駅〜仙台空港駅のアクセス鉄道は復旧の見通しがないようですが)。
 震災から4ヶ月。ヨドバシカメラは、ずーっと混んでいます。仙台のほぼ全ての家で、何かしら家電と食器は壊れたようですから。
 仙台に住んで20年近く、エアコンなし生活を続けてきましたが、昨年初めて、まずパレスチナ・オリーブで、商品の品質管理の面からもエアコンを使い始めました。この夏は、とうとう、自宅でも必要だと感じ、大混雑のヨドバシへ行きました(話がそれますが、やませはどこに行ってしまったのでしょう? 仙台に来て初めて、宮沢賢治の「寒さの夏はおろおろ歩き」を実感したものでしたが)。そして、忙しい店員さんをつかまえて質問。「地震でエアコンは落ちて壊れないのですか??」「地震で壊れたという話は聞きませんね〜。津波で流されたという方は買いに来られていますが。」 この返事を聞いて、(通常上部に取り付けられる)エアコンが流されるのなら全て流されているのでは??とよくわかりませんでした。さらに、取り付け工事に来てくださった方にも質問。「地震でエアコンは落ちて壊れないのですか??」「管でつながっているので、エアコン本体は傾くことはあっても落ちないんですよ。皆さん勘違いしていますが、壊れるのはエアコンの室外機なんですよ」 なるほど!それは、地震でも倒れるし、津波でも流されてしまいそうです。

 一方、地震で家の中があちこち壊れているので、地元の建設関係や電気工事の業者さんも大忙し。でも、「気の毒で、まともに修理代をもらえない。(職人さんたちを派遣するので)人件費の方がかかってしまうぐらい、、、」と、おしゃっていました。そして、仙台でも被災地全体でも震災以来変わらない風景は、屋根の上のブルーシートと重し。瓦を焼くのが全く間に合わず、数ヶ月待ちなのだそうです。

 住宅需要の増加、すなわち住宅不足の方は大変です。沿岸地域の被災者が仙台への移住したり、長期出張者向けに企業が借りたり、地震被害で住めなくなった人が引越先を求めたり。需要はあるのに、空きがないそうです。「借りたい人がいるのに物件を紹介できないのが辛い」という不動産屋さんのコメントがありました。仙台市で「全壊認定」を受け、退避すべきマンションが100棟。でも、建て替えか売却か決まらず、移転先もなく、住民が住み続けているところも多いようです。民間の賃貸アパートを仮設住宅代わりに借りるのが人気だそうですが(二年間無料で入れる)、この場合は支援物資も情報も届きにくい。そして、津波被害や地震被害を受けたアパートなどもまだまだ補修中で数が不十分です。
 仮設住宅は、仙台市でも沿岸地域でも、場所によって、便利/不便の差、大きさの差、建築材など質の差、などが大きいようです。身近にもいろいろな話を聞きます。ある県南の仮設住宅は、年配のご夫婦二人にたいして4畳半一間。しかもそのうち畳を敷いてあるのはは2畳分だけ。仕事や学校があって寝に帰るだけの場所ならともかく、ご夫婦が一日過ごすにはあまりに狭いでしょう。
 沿岸地域で、人々は海や山の自然に囲まれ広い家に住んでいましたので、狭い仮設住宅や狭い民間のアパートに移るのはなかなか大変です。また、年を重ねても田舎では畑などすることがあるけれど、いきなり仙台に来てもすることがない。

 一時的な(?)仙台の賑わいが、地元企業を助けるのか、県外資本の流入がますます進んでいる裏返しなのか私にはわかりません。震災の前から、不況で地元企業の衰退が進み、仙台駅前にはロフトやパルコなどができ、街中はチェーン店の喫茶店ばかりになり、森ビルが商業地を買っていました(具体例を出しただけで個々の企業のことに詳しいわけでも非難しているわけでもありません)。噂レベルでは、地震直後に関西の業者が木材を買い占めたとか、いま県外のあやしいリフォーム会社が入ってきているとか、、、。

こぼれ話1:パレスチナ・オリーブの斜め向かいにあるビルで倒壊の危険があったのか、地震後しばらくビルの前の歩道や道路が封鎖されていました。その後、道路の封鎖は解けたのですが、そのビルは、いま、やっとエレベーターの補修工事中なのだそうです。それで、佐川急便のお兄さん、台車も使えず、荷物を階段で手で運んでいるそうです! 地道に(地味に)大変そうです、、、暑いのに。

こぼれ話2:とある沿岸地域で聞いた話。長年の習慣で、お金を銀行などに預けず、他の家族にも言わず、自分で現金を家にしっかりためこむ年配者も多かった。津波で1,000万円以上流されてしまった人もいたそうです、、、。


 全く話が変わって。中東の動きが気になりながら(さすがにパレスチナのニュースはチェックしつつ)、震災後、なかなか国際ニュースを見る気になりませんでしたが、やっとBBCのニュースチャンネルなどを見始めました。シリアは政府による弾圧で多くの死傷者も出て、心配な状況が続いています。しかし、自分自身にとって、311以後の仙台から世界をとらえ直すのは、まだ時間がかかりそうです。


この記事のURL:http://himar-diary.jugem.jp/?eid=26


2011/05/28(土) 02:33|震災

チェルノブイリに思いをはせながら

  停電の中、乾電池を入れたラジオから福島原発の最初の爆発のニュースを聞いたときに頭をよぎったのは「チェルノブイリ原発から100km圏内なんて十分汚染地域だ」ということでした(仙台は福島原発から95km)。でも、本当に、チェルノブイリ周辺に住んでいる人々のように、長期間にわたって放射能汚染した水・空気・食物とともに生活することになろうとは具体的には想像できていませんでした。5月24日の原子力委員会でさえチェルノブイリ原発事故後の土壌汚染状況と福島県の土壌汚染の比較をしています。宮城県は相変わらず調査されていませんが(宮城県の丸森町の南部は、隣接する福島県伊達市や相馬市の一部と同じ汚染濃度が推測されています)。
 基準値(目安)超えのものは多くないとはいえ(調査した範囲での)宮城県内全域の牧草から放射性物質が検出されているように、身の回りのものは多かれ少なかれ汚染されているわけです。仙台でもセシウムだけでなく半減期の短いヨウ素も検出されており、まだ新しく放射性物質が飛んできていることが推測されます。東日本に住んでいる限り放射性物質を完全に避けることはできないわけですし、いままでおいしい野菜を届けてくださっているところからの野菜は迷わず子どもも一緒に食べていますが、スーパーなどで買い物をするときはどう選ぶか悩みます。基準値は安全値ではなく、我慢値なのだということを実感します。
 ここに来て、原発事故に対する仙台の雰囲気が少し変わったと思います。子どもを持つ保護者が学校や教育委員会に直接問い合わせたりしています。また、「放射線被曝から子どもを守る会」や「5年後、10年後の子どもが健やかに育つ会〜仙台支部〜」ができて、情報交換をしたり、仙台市教育委員会に要請書を出したりということが始まっています。仙台では学校ごとの測定も何も行われていませんので、まず、安心して暮らせるよう情報公開・共有を求めています。プールの掃除も懸念材料でしたが、息子の学校は既に3年生が清掃をしてしまったそうです、、、。

 もう新しく飛んできている量は少ないだろうから降り積もったセシウムをどかすだけと思い、他いろいろ考慮した上で子どもをGWで仙台に戻しましたが、結果として読みが甘かったわけで、子どもの再避難についてすごく悩んでいます(自宅敷地内でのホットスポットは倉庫の雨樋の下で1.5マイクロシーベルトありました。自宅周囲の放射線量は0.13前後です。機械はウクライナ製、、、この機械の警戒値は0.3なので、側溝などを測るとピーピー鳴ります)。子どもの健康被害のリスクを考えるならば遠くへ行った方がいい。でも7歳の子をまた親と離すにはためらいがあります。私が移住する決断もつきません。残るからには、ここでみんなで顔を合わせ「地震・津波・原発事故」のトリプル災害の中で暮らして行く方法を探していかなければなりません。仙台でさえ、です。これまでの当たり前の生活が終わり、放射能とともに生きていく生活が始まったことにぼう然とします。

 低線量被曝による健康被害リスクはあくまで確率の問題です。子どもがみんな病気になるわけではありません。おそらく、ガンの確率が少し上がったり、ぶらぶら病のような病気の人が少し出てくる「だけ」。
 原発事故がなくても、若くしてガンで亡くなる人がいます。ブログに書くかどうか迷いましたが、私は数年前に、妹をガンで亡くしています。32歳でした。その辛さを知る人が1人でも増えるのは悲しいことです。それを何度も考えてしまいます。

この記事のURL:http://himar-diary.jugem.jp/?eid=25


2011/05/27(金) 15:14|震災

喪失感

  10日ほど前のことです。友人の家に用事があって電話しましたが、両親(友人)とも不在で、小学生の子どもたちが留守番をしていました。「いま、お父さんとお母さんいなくて留守番中だって〜。」と、近くにいた私の息子に何気なく言うと、「お父さんとお母さん、死んじゃったの?」と息子の返事。ぎょっとして慌てて否定しましたが、息子はこう続けました。「同じクラスの〜ちゃん、お祖母さんが地震(津波)で死んじゃったんだよ。授業中に泣いていた」と。沿岸地域の子どもたちが授業中に突然泣き出したりすることがある、というのは、ニュースでは知っていましたが、ここでも身近なことなんだと改めて思いました。
 10年ほど連絡の取れていなかった、中学時代(新潟)の友人が石巻に住んでいて、先週電話をくれました。地震後1週間頃に、新潟に住む共通の友人からメールで「無事」を聞いていて、高台に住んでいたのかな〜などと思って安心していたのですが。
 「2階の上まで浸水した。持ち出せた物は、貴重品と息子のランドセルと娘のお気に入りの毛布のみ。夫は会社の車で仕事に出かけていて、自宅(賃貸)には車があったけれど私は免許を持っていない。それを知っていた近所の人が、車さえあればそこに泊まることもできるしどうにでもなるから、と近くのショッピングモールの屋上駐車場まで私と子どもたちを乗せて車を運転してくれた。でも、その人は他の親戚を助けにいっている間に、津波で亡くなってしまった。私たちはその後、避難所に行って、後は親戚のところにお世話になっている。アパートを借りる予定だけれど、そこも浸水したのでリフォームが終わるのは7月末だ」と言うので驚きました。
 「全然、無事じゃないじゃん!」、、、でも、地震直後の連絡では、生きていることを「無事」と言ったんですよね。全て浸水しヘドロをかぶったので何もかも使い物にならなくなったそうですが、「物資をもらえる場所を回って、いまや12袋分の荷物があるよ〜」とからからと笑っていました。たくましい友人ですが、家族の生活物資全てが12袋では多くはないでしょう。そして、人々を助けた人が亡くなった、その話も無数に聞きました。これもニュースでも、もちろん聞いています。でも、知人から「消防団に入っていた中学時代の同級生が、津波避難を呼びかける3回目の見回りに行き犠牲になった」という話を聞くと、ニュースで聞くのとは何か違うのです。
 仙台の人も、地震直後何をしていたか、会ったり電話したり、まず話をする時期がありました。まだ、続いています。そして、沿岸の友人・知人から話を聞くことも続いています。自宅が流されたり燃えたりするのを目にし、多くの人が津波に飲み込まれるのも見た人たちもいます。遺体安置所を毎日回った友人・知人たちもいます。想像もできないことです。まだ、話せない人も多いでしょう。
 ライフラインが復旧しても、気持ちは全く通常ではないのです。深い喪失感を抱えたままの生活になっています。仙台でさえ、2ヶ月以上経ってこれなのです。
 ニュースでは、明るく前向きの話題を、と「復興」のニュースばかり流れます。でも、私の周辺でさえ。近所の市民センターはまだ避難所で駐車場にシャワー用のテントがある状態。給食センターが復旧せず毎日お弁当を作らないといけませんが、近所のスーパーは閉店しました。大好きなおにぎり屋さん(おかずもおいしい)は自宅が壊れたそうでまだ再開していません。不動産屋さんに掲示してある物件も激減(需要が多く家賃は値上がりしているそうです)。駅前の3階建てのドラッグストアは地震以来閉まっています。ずっと立ち入り禁止になっていた駅前の商業ビルも、やっと修復見通しが立って全てのテナントがいったん退去だそうです。老舗のホテルも全館営業は来月。テレビCMでは、(震災前に決まっていたけれども会場が使えないために)中止のコンサートの払い戻しについてのお知らせがたくさん、、、。失業・休業者は身近にも確実にいます。復旧・復興していないことこそ、そして復興から置いてきぼりされかねないことを伝えるべきな気もします。
 いま、特別に何かをしなくてもいいから、家族にも、友人・知人にも、自分自身にも丁寧に向き合うことが大事なんだろうと思います。、、、が、頭でわかっていても、自分も疲れながら、いつも以上に甘えてわがままな息子を受け入れることだけでも、あまり簡単なことではありません。小学校から渡されたプリントには「反応が出るのは当たり前。数ヶ月、半年という長い期間、影響が出てくる」とありましたが、これは普段からのわがままなの?? 震災のせいなの??と思う日々です。
 そして、3月11日前の日常は二度と戻らないことをますます感じています。
この記事のURL:http://himar-diary.jugem.jp/?eid=24


2011/05/07(土) 23:37|震災

2ヶ月後の仙台の状況

  地震から約2ヶ月が経ちましたが、日々必死なうちにあっという間に過ぎてしまい実感がありません。むしろ、3月11日で時間が止まっている感じです。余震も毎日あります。
 周囲の人に聞いても同じです。「全国のテレビ番組は通常に戻ってしまったね、、、」。それに違和感を持つくらい、何かまだ渦中のさなかで日常に戻れる感じがしません。疲れも出てきました。避難所でなくても、年配の方で病気になる方が増えています。
 それぞれの皆さんにいろいろな状況があるので、書いていることは私の周囲の話です。

(1)地震被害
 沿岸地域では元の風景が一変してしまったのに対し、パレスチナ・オリーブの周囲を含め仙台の街中は、一見は何事もないようで、よく見ると瓦の落ちている住宅があったり、外壁がはがれている建物があったり、お店の中が壊れていたり、道路が通行止めになっていたり、、、と普通の風景なのに何か違う、というのが、かえって奇妙な状況です。普通のようで普通でない。
 アパートやマンションにあちこち大きくひびが入っているのに「大家さんは大丈夫と言うけれど、怖くて住めない」という友人・知人がたくさんいます。ある友人は、市営住宅の2階に住んでいるのですが、津波に襲われ1階が水に浸かったけれど「2階以上は問題なし」と言われて住み続けています。全く住めなくなって引越す人もいれば、沿岸からの移住者もあり、移れる場所もお金もない人も多いのです。その他、仙台市内では、造成地が崩れて傾いている家が多いそうです。
 街中は、ガスが復旧し、建物の補修も終えて、開いているお店が多くなりました。しばらく何も買えなかったし、壊れた物も多いし、、、というのが理由がどうかはわかりませんが、日中は賑わいが戻ってきました。しかし、夕方以降はぱったり人が途絶えたままです。廃業、支店の整理などによる震災関連解雇等の話は身近でも多く聞きます。
 交通機関も復旧してきましたが、飛行機は運行スケジュールが1週間ごとに発表される。新幹線の時刻表は「4月29日〜当分の間」となっています。
 そして、息子の通う小学校の給食はまだパンと牛乳のみ(プラスお弁当を毎日持っていく!)、放課後を過ごす児童館は市民センターに入っているのですが、引き続き避難所となっていて避難者の方々が生活しています。近所にある大好きなおにぎり屋さんは、地震以来閉まったままです。もう廃業してしまうのか心配です。

(2)津波被害
 道路が少しずつ復旧し(あるいは新しくつくり)、ガソリンも手に入るようになって、仙台近郊から個人的に沿岸地域の友人・知人を訪れサポートしている人から話を聞くようになりました。
 ニュースでは、仕事を割り振りしきれなくてボランティア希望者を断っている、物資も余って処分に困っている、と言っていますが、細かいところは全くカバーしきれていないようです。まだ、食料が十分でないところがあります(パン、おにぎり、カップラーメンしかない)。先週、知人が食料の他、現地から要望のあった、やかん10個と魔法瓶10個などを購入して届けたそうです。地震から2ヶ月経ってやかんが必要とは、、、これまでどうしていたのでしょう。その地域は、1週間前から電気が夕方から3〜4時間つくようになった、水道はまだ、という状況だそうです。
 結局、大きな団体より個人のつながりの方が小回りが利くので、宮城県では、被災者が被災者をサポートしているような状況です。それぞれの被災地のニーズは日々変化しているため、「明日、行ける」と思ったときに連絡してそのとき必要なものを買って持っていく、そんなことが一番いいようです。
 皆様からパレスチナ・オリーブに頂いた物資やカンパの一部を、(自らも被災者である一方で自腹を切って活動している)宮城の友人・知人による沿岸サポートに回させて頂きました。どうもありがとうございました。(パレスチナ・オリーブ自体では直接の沿岸支援は行っておりませんので、沿岸支援のための物資・カンパは募集しておりません。)

(3)原発被害
 仙台の大気中の放射線量は通常の2倍程度で下げ止まっています。京都で里子になっていた子どもをGWで仙台に戻しました。結果として仙台が福島原発から95キロという距離の割に放射線量が高くならなかったということもありますが、むしろ、もう大丈夫と思ったからではなく、(セシウムの半減期は30年と長いので)半年、1年待っても状況は変わらない、と思ったからです。地表に積もったセシウムが原因ならば、セシウムがたまっているところを洗浄するしかありません。まずは計測したいのですが、ガイガーカウンターは入荷待ち(予定では、子どもが仙台に戻る前に手に入るはずだったのですが!)。とりあえず、自宅の回りを水で流してデッキブラシでゴシゴシと掃除したり、家の床を水拭きしたりしています。なにか、原始的ですが、、、。
 宮城県は、とにかく計測に消極的で、未だに一部の市町村で大気の放射線量を1ヶ所計るだけ。水道水と野菜は1週間に1回計るだけ。福島県と宮城県の県境には壁でもあって放射性物質が入ってきていないかのような対応です。しかし、実際には、例えば、宮城県南部の丸森町は伊達市などに接しており、計画避難地域になっている飯館村とも目と鼻の先なのです。まずは計測してしてほしい。そして対応してほしい。丸森町の複数地点で計測を続けている知人は、教育委員会などに結果を伝え対応を要請していますが、行政による取り組みの予定はないそうです。
 宮城県はそれどころではないのは重々承知なのですが、まず行政機関にもっときちんとした対応を求める一方、自分たちで地表や放射性物質がたまりやすいと言われる場所などを計測していくしかない、という状況です。
 福島県の人たちとのかかわりについては、早尾の最近のブログをご参照下さい。

 「がんばれ東北!」「がんばれ仙台!」の文字が街にあふれ、見るだけで疲れるなあ、、、と思います。「もう十分頑張っているから」ではなく、頑張らなくてもいいと思うからです。悲しみに沈んでいてもいい、何もやる気がしなくてもいい。しかし、実際のところ、まだまだ「(後でどーんと落ち込むかもしれなくても)いまは動いている方がラク」「気持ちにふたをしている」という声もよく聞きます。難しいです。
 私自身は、頑張らなくても、フェアトレード服を着たりしてたまに明るい気持ちになっていたいと思います。
この記事のURL:http://himar-diary.jugem.jp/?eid=21


2011/04/18(月) 00:59|震災

仙台空港など

  仙台空港は寒かった、、、です。

 全国ニュースでも流れたように13日から仙台空港が一部復旧・再開しましたので、週末、関西に避難している息子に1ヶ月ぶりに会いに行ってきました(初めて正規運賃で飛行機に乗りました。二度と乗らないでしょう)。仙台空港に行ってみて「これは復旧じゃない。仮設空港だ、、、(かつてのガザ空港より小さい)」と思いました。空港の1階の隅、ほんの一角だけがパーテーションで囲まれ、机を置いてチェックインカウンターがつくられ、椅子を並べて待ち合いの場所をつくっているだけなのです。トイレも1ヶ所だけ、仮設で建てられたところを使います。まだ電気が通っていないため、自主電源で最低限の電灯と機械を使って業務が行われているのです。だから、暖房もありません。航空会社のスタッフが、毛布とホッカイロ、熱いお茶を配ってくれました。周りの携帯基地局が流されているので、携帯電話もつながりません。空港の建物から飛行機までは、16日は歩きました。17日はバスがありました(100mほどなのでバスはいらないと思いましたが)。預け荷物のベルトコンベアもなく、マットをひいた上に荷物が並べられていました。
 それでも、羽田行き・伊丹行きが数便ずつだけとはいえ、もう空港を使えるだけでもありがたいのかもしれません。空港の周囲は津波に呑まれ何もありません。空港へ行くにも、仙台空港アクセス鉄道は運転再開の見通しなし。駐車場スペースがないため自家用車で行くのも禁止。アクセス線の代行バスと仙台駅からの直通バスだけが動いています。
 そして、バスからも飛行機からも見るも辛い風景が続きました。ニュース映像で見るのと実際に目にするのでは、生々しさがまったく違います。海辺の松林の樹々は、すべて海から陸に向けて横倒しになっています。田んぼには、いろいろながれきが散らばっています。津波で一掃されたのか、片付けられたのかわからないように何もない場所と、住宅に船が突っ込んでいるような場所があります。ところどころに何百台もの壊れた車が並んでいました。覚悟はしていましたがショックでした。
 空港はとりあえず1週間の予定が組まれているだけで、20日以降の運行スケジュールが出ていません。いつ運行予定が発表されるかもまだ決まっていないそうです。5月14日、15日に行われるフェアトレードイベントで名古屋に行くので(早割で取って頂いた)飛行機のチケットを持っているのですが、それまでに名古屋に飛ぶのでしょうか、、、。新幹線も4月末から再開予定ですが本数は少ないようです。

 さて、本当に復旧した方の話。仙台市のガスが(沿岸地域を除いて)復旧しました! 自宅には中部ガスの方が開栓に来てくださいました。仙台はいまビジネスホテルなど宿泊施設は(お湯は出なくても!)すべて満室と聞いていたので宿泊先を尋ねたら、「鳴子温泉に泊まって、毎日片道1時間半かけて通っている」という答えでした。全国のガス会社の方の協力で仙台のガス復旧が進みました。どうもありがとうございました! 3週間ぶりのお風呂、とてもほっとしました(新潟で入って以来)。
 ところで、「お風呂って毎日入らなくてもいいと思うようになった」「ガスを使って料理する手順を忘れた」とみな口々に言っています、、、。私も、電子レンジでの下ごしらえやカセットコンロに慣れてしまいましたが、ボンベを節約して使っていたため、ずっと作っていなかった煮込み料理ができるようになったのが嬉しいです。
 ガスが出て、飲食店も通常営業になってきました(廃業も聞きますが)。美容院も再開しました。髪の毛を切りたいです。

 話、さらに変わって。
 コーディネートが悪い(コーディネーターの人手不足)と言われながらも、各地の災害ボランティアセンターを通じて県外からのボランティア受け入れが始まっています。いま、沿岸の片付けはかなりの人不足(宿泊できる場所から沿岸まで時間がかかり、実働時間が短いという問題もあります)。その一方、むしろ避難所の人から「お金より仕事が欲しい」「がれきの片付けなどを仕事として欲しい」というような声もあるそうです。このあたりは行政も考え始めているようです。
 私の周囲では、仙台など「軽度の」被災者が、個人的なつながりなどから沿岸に出かけて細かい被災者支援をしています。でも、仙台でいま動ける人は、地震の影響で職を失ったり、休業(待機)状態だったりという人も多いです。そういう人たちの交通費(ガソリン代含む)、宿泊費など経費を集めるしくみも必要だと感じて、沿岸で走り回っている友人と相談しています。
この記事のURL:http://himar-diary.jugem.jp/?eid=20


2011/04/14(木) 16:37|震災

宮城県知事宛の緊急要望書

  遅くなりましたが、4月1日「風の会」「わかめの会」が提出した宮城県知事への緊急要望書を紹介します。テキスト文書にして貼付けています(会の代表者の名前・住所・電話番号を削りました)。

* * * * * 
2011年4月1日
宮城県知事 村井嘉浩殿 

福島原発震災についての緊急要望書  
  
みやぎ脱原発・風の会
三陸・宮城の海を放射能から守る仙台の会(わかめの会)                  
 3月11日に発生した地震と津波の結果、福島第一原発では原子炉および使用済核燃料プールを冷却することができなくなり、原子炉建屋が水素爆発し、さらに放射能を閉じこめる「最後の砦」といわれる格納容器も損傷して、大量の放射能が環境中にまき散らされるという深刻な事態になっています。しかもまだ終わりが見えていません。
 福島県の隣県に住む私たち宮城県民は、いま大きな不安の中にあります。ただでさえ、地震・津波による甚大な被害を受けているにもかかわらず、さらに原発震災による放射能の心配までしなければならないことに、大きな憤りを感じています。
 事故を起こしたのは、東京電力福島原発ですが、宮城県としても隣県の原発に起因する被害に対して県民の安全を守る責任は危機管理上、当然あってしかるべきでした。 
 しかし宮城県は、これまで原発について国と電力会社のいってきたことをうのみにして、女川原発をはじめ国の原子力政策については 「安全だ」といい続けてきました。よって県民に対して十分な安全上の施策(各所へのモニタリングポストの設置や迅速な情報公開、避難の方法など)を怠ってきたことに対し、大いなる反省が求められていることを認識すべきです。
 まず、今起こっていることに対し、宮城県民の健康を守るため、以下の点を早急に実現されるよう、強く要求いたします。

1、乳幼児の健康を守るため、ヨウ素剤の配布準備と、その用法についての県民への説明を徹底させること。(特に福島県に近い宮城県南地域において)

 毎日、宮城県原子力安全対策室から発表される空間放射線測定値によれば、山元町など宮城県南地域では、これまでで最高で1.59マイクロシーベルト/h(3月16日)など、軒並み高い値を示しています。(通常は0.03〜0.05マイクロシーベルト/h)
 放射線量は日々変わりますが、原子力安全委員会が発表した、緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)の試算によれば、1歳児のヨウ素の内部被ばく臓器等価線量の試算値は、すでに福島県の北部にある伊達市にまで100ミリシーベルトの値に達しています。
http://www.nsc.go.jp/info/110323_top_siryo.pdf
 また、茨城県薬剤師協会では、「ヨウ素剤は,原子力事故の際に放出される放射性ヨウ素を吸入した際に, 放射性ヨウ素が甲状腺へ吸収されることを阻害する働きがあり, 甲状腺ガンの発症を低減させる目的で, 甲状腺被曝線量が100ミリシーベルトを越えると予測される場合に服用します」としています。
http://www.ipa.or.jp/info/info11031215_tohoku.pdf
 これらからいえば、福島原発からの放射能拡散の状況がさらに悪化する可能性も強いことから、特に宮城県南地域、さらには宮城県全域において、ヨウ素剤の配布を準備し、正しい服用の方法を県民に知らせることを要求します。とくに、県としては、いつ、どのような状況になれば、配布を始めるのか、配布基準と配布方法について教えてください。

 付け加えると、一部報道において、「X線と比べて低い値」だとか、「CTスキャンと比べて低い値」だから大丈夫だという見解がありますが、これは「外部被曝」と「内部被曝」、また「急性障害」と「晩発性障害」を混同した暴論です。内部被曝は、食べること、呼吸すること、そして皮膚から体内に放射能をとりこんで、体内で被曝することですが、その危険性について国はまったく国民に知らせていません。「ただちに健康に影響がない」レベルでも、汚染された食物を食べたり飲んだりすれば、確実に内部被曝します。そして、それは晩発性の障害として5年後10年後に発生する可能性があります。
 アメリカ政府は東北・関東圏に在住するアメリカ国民へヨウ素剤の配布を決定したと報じられています。また、チェルノブイリ事故後約5年目から周辺諸国の子どもたちの甲状腺ガンが増大し事故との因果関係は国際的にも認められていますが、チェルノブイリ事故時ポーランド政府はいち早くヨウ素剤を国民に配布したため、事故後同国の甲状腺障害者は殆ど出なかったと聞いています。
 宮城県は、福島原発の直近における外部被曝による急性障害を受けるわけではありません。県民の安全を守るために考えるべきは、内部被曝による晩発性障害です。したがって、少なくとも子どもたちの甲状腺ガンを防ぐ手立てであるヨウ素材の配布については準備することを強く要望します。 

2、空間放射線量だけでなく、大気中のヨウ素131やセシウム137の放射性物質、さらにその他の核種についても検査し、毎日公表すること。また、水道水・農産物の放射能測定についても、定期的に測定し公表すること。それらをグラフ化して公表すること。

 文部科学省のHPには、上水(蛇口水)、定時降下物のモニタリングのページがありますが
http://www.mext.go.jp/a_menu/saigaijohou/syousai/1303956.htm
 宮城県は「震災災害によって計測不能」となっています。
 多くの県民の不安と怒りの声が宮城県を動かして、なんとか水道水と農産物については東北大学の協力で測定を始めたようですが、すでに福島県内で放射能汚染が発表されてから1週間以上がたっており、また一時は「宮城県では測定しない」とするなど、県民、ひいては国民の健康を守ろうとする姿勢が全くありません。「風評被害があるので測定しなかった」という知事の言葉が本当であるとすれば、乳児を抱える親にとっては信じられない発言ではないでしょうか?
万が一宮城県の水道が放射能汚染されていて、それを測らないために乳児に飲ませ続けてしまったときの親の不安と後悔という可能性を、県は考えていたのでしょうか?
 ともあれ、今後はやっと始まった水道水と農産物の放射能検査について、可能な限り県内各地・また多種多様な作物について毎日計測し公開することを求めます。

 また、まだ計測していない、大気中のヨウ素131やセシウム137の放射性物質、プルトニウムなどその他の核種についても検査し公表してください。山形市では、3月26日にヨウ素131が7500MBq/km2、セシウム137が1200MBq/km2と、かなり高い値を示しています。当然、宮城県にも放射能の雲が到来していることが予想されます。
さらに、今計測している、空間放射能値、水道水および農産物の放射能値、さらに今後計測する大気中のヨウ素131やセシウム137の放射性物質の値について、日々の変化が一目で県民に伝えわるよう、横軸を計測日にしたグラフにして日ごとの変化がわかるように公表することを要求します。
 
3、空間のほか海洋および土壌など宮城県全域での恒常的な放射線測定を求めます。

 今回、宮城県は女川にしか放射能測定器を置かなかったために計測できず、文部省がまとめて全国レベルで行っている放射能検査に宮城県が参加できないという不手際を示したことに、県は猛省すべきだと思います。もし、仙台市などにモニタリングポストを設置していたならば、今回のようにはならなかったはずです。
 今後は、今青森県や東北大学などの協力によってなんとか実施している放射能計測について、女川・石巻だけでなく、少なくとも仙台をはじめ県内各地で恒常的に実施できる体制をつくるよう求めます。
 ちなみに、青森県では、青森市のモニタリングポストで計測している放射能値をリアルタイムで公表しています。
http://gensiryoku.pref.aomori.lg.jp/atom/index.html

 また、現在女川周辺でしか行っていない、海洋での放射能検査(海水・海産物・環境試料)を、県内広域で行うよう要求します。とりわけ、福島県に近い山元・亘理沖での検査を早急に行うよう、体制をとってください。
 さらに、3月27日に枝野官房長官はプルトニウムが周辺の土壌を汚染しているかどうかの調査を急ぐ考えを明らかにし、その後福島原発敷地内でプルトニウムが検出されています。県としても土壌汚染に対する放射能検査を行ってください。

4、女川原発の被害状況についての報告をしてください

 福島原発の事故が起こったことにより、女川原発について心配する声が県内外からあったと思いますが、それについて宮城県からはHPで「女川原子力発電所の1号機,2号機及び3号機については,地震直後,安全に停止しております。また,東北電力株式会社が発電所構内に設置しているモニタリングポストによると環境中への放射能漏れはありません」とだけで、くわしい状況についての説明がありません。
 一体、女川原発は地震・津波によりどれくらいの損傷があるのか(火事もあったようですが)、はたしてどこからも放射能は漏れていないのか、また今後再稼働する可能性はあるのか、とりわけ1号機は70年代に製造されたものであり、すでに30年たっている古い原子炉であることからいっても、再度動かすことは住民感情からいっても難しいのではないか、などいくつかの疑問に対し、県としての見解を求めます。
特に、福島原発との関係でいえば、女川原発でも津波の当初、非常用電源が作動しなかったことは、重大な事態であったと考えます。以下東北電力HPからですが、
http://www.tohoku-epco.co.jp/emergency/8/index.html
【女川2号機】
・原子炉建屋地下3階非管理区域にある補機冷却系の熱交換器室に、海水が浸水していることを確認しました。この影響により、非常用ディーゼル発電機(B)および高圧炉心スプレイ系用非常用ディーゼル発電機が起動しませんでしたが、外部電源からの電源供給および非常用ディーゼル発電機(A)の起動により、必要な電源が確保されていることから、プラント運転上問題ありませんでした。3月16日10時30分、海水の排水を完了しました。

とありますが、ここで、万が一外部電源からの電源供給および非常用ディーゼル発電機(A)の起動ができなった場合、福島原発と同様に、使用済核燃料プールの冷却ができない事態になっていたかと思います(稼働直後のため、原子炉内の温度はまだおそらく低かった?)。もしかして、福島県が直面している問題を宮城県も直面しなければならなくなったかもしれないことを、県としてはどのように認識していますか?
 いずれにしても、女川原発については、まずは福島原発の推移とその後の分析をしっかり行うことがなにより求められており、間違ってもその前に拙速に再稼働に向けて動くことのないようにすべきです。

以上の4点を早急に実現するよう、強く求めます。

 福島原発の危機の収束はまだまだみえず、原子炉の溶融、および圧力容器の破損により大量の放射能の拡散という現実に私たちは直面しています。すでにプルトニウムも原子炉の外に放出されています。
 宮城県としても、これまでの危機感のなさを改め、県民の不安解消のためには、まずはしっかり放射能値について検査し、情報を集め、それを公開すること、そして最悪の事態に備えた体制を準備することがなによりも大切だということをしっかり肝に銘じて、県民の安全のために仕事されることを強く望みます。
以上

* * * * *

この記事のURL:http://himar-diary.jugem.jp/?eid=19


2011/04/14(木) 16:23|震災

続・福島原発のこと

  初めて買ったレコードは、RCサクセションの『カバーズ』でした。1988年、中学生のときです。いま、YouTubeで聴いています。悔しくて泣けます。
 3月25日にアップした「福島原発のこと」、多くの方に読んで頂きました。あのとき、悩んで避難した人たちの多くも、学校が始まるのに合わせて仙台に戻ってきました。私の子どもは、一時的に京都に里子になっています(暖かく迎えてくださったホストファミリー、学校の皆さん、どうもありがとうございます!)。
 これからのこと、決めかねています。子どものことだけ考えれば、半年か1年、海外に家族で移住できればベストですが、その覚悟は(まだ)ありません。仙台に多くの仲間がいて、つながりがあって。友人が「仙台(土地)に愛着があるわけではなくて、人がいるからだよね」と言っていました。その通り。別の知人は「お金がなくて逃げられないのが一番つらいですよね」とぼそっと言っていました。それもその通りです。
 将来ガンが増えても「因果関係が確かでない」と言って東電からも政府からも補償など出ないのでしょうから、ガン保険に入ろうかと半分冗談で半分本気で考えています。
 仙台では「放射能」のことは、口に出すのがタブーになってきています。みな、それどころではなく考えたくない、そういう雰囲気です。気持ちはわかります。でも実は不安な人たちもいるので、そういうことを話す場もつくりたいと考えています。

 以下、早尾のメール(4月12日)を転載します。

***
 早尾からBCCでお送りしています。

 以前案内しました10日の京都ガケ書房の集会が終わりました。
 たくさんの方に参加していただき、感謝です。

 〈3・11〉大地震から一ヶ月ということでしたが、一ヶ月避難をして様子見をして、結局その結果、度重なる大余震、そして原発の電源喪失事故の連続。1号機の爆発危機、2・3号機の容器破損、超高濃度の汚染水を超々高濃度と比べて「比較的低濃度」と称しての人為的放流、レベル7への格上げ、そして、子どもを避難させないため(!)の被曝許容上限の引き上げ、という恐ろしい事態のオンパレードでした。
 仙台を離れたときは、子どもに「最低一週間は様子を見よう。一ヶ月になるか、一年になるかもしれないけれど」、と言いましたが、結局、一ヶ月では済みませんでした。

 京都のガケ書房の集会報告を。
 3月末の神戸での集会に続いて二回目でしたが、そのときとの大きな違いは、4月の新学期始めにあたって、東北地方避難組の多くが帰郷していたことでした。神戸のときは、私たちも知らなかった避難家族たちが多く参加してくださいました。宮城・福島だけでなく、関東からも。しかし今回は、もう4月10日。翌11日からは、仙台市でも早いところは小学校が始まるというタイミング。みな、上記のような余震と原発の厳しい状況を知りながらも、やはり学校のために、また避難生活疲れで、帰る、という選択をしたのだと思います。今回、脱出者は、最初から顔見知りの4組だけでした。
 避難指示を受けた人たちは強制的に故郷から離されましたが、「自主的」に避難をした人たちもまた苦しい状況に置かれています。
 仙台から母親と避難をしている高校生が涙ながらに発言をしてくださいました。一方では、若い体への放射能の影響を心配する同級生たちがいて、しかしまだ高校生では自分だけで遠方に避難することができない。そういう同級生らに電話口で泣かれたことも。他方で、仙台で「通常」の生活を取り戻し外出もし、また沿岸地域へボランティアへ行く同級生らも。でも、その人たちとは原発・放射能の恐怖については問題意識を共有できず、電話でその話題を出すと関係が悪くなってしまう。その両者の板挟みになって、どちらのほうの友人と話をするのもつらいとのことでした。
 「だから、大人たちが子どもを守るためにきちんとしてください。そして被災地のなかにいる人たちにはその余裕がないので、外側の人たちがぜひ動いてください」。そう彼女は訴えていました。

 かく言う私の子どもは、もっとずっと小さな新小学2年生。
 昨日、里親さんのお子さんの通う、京都の小さな小学校へ臨時の転入手続きをしました。校長先生自らが、奥尻島の津波被害のときに一ヶ月ボランティア活動をされた経験をもっておられ、私たちのような避難者の受け入れにも深い理解を示され、柔軟に対応をしてくださいました。
 子どもも、みんなに歓迎されたようで、ホッとしました。
 ひとまず、4月いっぱいと考えています。一週間やそこらでは判断できません。余震の収まり具合、そして原発の収まり具合、放射能の飛散具合。それらを4月末まで注意深く見ながら、子どもを仙台に戻せるのかどうか、それを判断したいと思います。幸い学校のほうでも、まず一ヶ月は「長めの体験入学」、その後のことは状況次第、と言ってくださいました。里親さんと学校には、感謝感謝です。

 と、いうことで、昨日夕方、子どもとまたしばしの別れを告げて、京都市内で、別の仙台脱出の親子連れから連絡を受けて会っている真っ最中に、福島での余震と冷却電源の喪失のニュースに接しました。絶句しました。約一時間後には、電源復旧ということになりましたが、本当に綱渡りです。親とはしばらく離ればなれですが、京都に子どもの居場所があって、本当に幸運だと思いました。
 そしていま、私は東京に戻ってきています。

 今回のメールでは、みなさんにまた一つ協力のお願いがあります。
 福島県ではこの学期はじめに、独自に各学校の放射線量の測定を開始しました。その結果は、福島県庁のウェブサイトで公開されています。
 http://www.pref.fukushima.jp/j/schoolmonitamatome.pdf
 一行目の福島市の小学校から驚くべき数字が出ています。地上1mの高さで4.9マイクロシーベルト/時、1cmの高さで6.3マイクロシーベルト/時。子どもは背が低く、土ぼこりとともに舞い上がる放射性物質を吸い込みやすいとされていますし、また、小さな子など、いくら注意しても、地面に座り込んだり、土いじりをしたり、あげくにはその手を直接口に突っ込んだりします。私の子どもがそうです。なぜなら、歯の生え変わり期で、揺れる歯が気になって仕方がないからです。なので、子どもに、「数値が高いので注意しましょう」などと言っても無意味なのです。疎開させなければなりません。すでに、福島県の浜通りと中通りは全体が子どものいる環境ではないと思います。
 この独自調査は、ただ結果を公表しているだけで、この数字を越えたらどうするという指針がありません。いまそれを福島県が文科省に対して求めているのですが、文科省は福島県に対して、なんと「20ミリシーベルト/年」が屋内退避の目安だと回答する方針だというのです!
 http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110409-OYT1T00912.htm?from=tw
 これは、もはや一般の原発労働者並みの被曝許容上限です。正気とは思えません。端的に、子どもを「避難させないため」の指針です。
 先の福島市の小学校の数字ですが、単純に5マイクロ/時として計算すると、年換算ですでに44ミリシーベルトに達します。しかも、外部被曝と内部被曝の合計ということを考えれば、100ミリシーベルト/年ぐらいの被曝量なのです! どうしてこれが児童に対して許容されるのか理解できません。すでに退避指示水準をはるかに超えていると思います。(他の小学校を見ても、いずれも異常な高さです。また隣接する宮城県南部と茨城県北部もそれらに近い数字が出ています。)

 そこでお願いです。
 みなさまそれぞれの言葉で、以下の窓口に対して、しかるべき対処を求める意見を寄せてください。言ってもどうにもならないかもしれませんが、全国から数が集まれば少しでも動くかもしれないと願わずにはいられません。また、周囲の人たちにも呼びかけてください。そしてさらなる行動をするために、いいアイディアがあったら教えてください。自ら動いてください。ぜひよろしくお願いします。

 ●福島県:知事直轄県民広聴室:電話:024-521-7013/FAX:024-521-7934
  koucho@pref.fukushima.jp

 ●福島県教育委員会:電話:024-521-7759
  k.kouhou@pref.fukushima.jp

 さらに、以下なども。

 ●内閣府原子力委員会 国民の皆様からのご意見募集
 http://www.aec.go.jp/jicst/NC/tyoki/tyoki_oubo.htm

 ●原子力安全委員会 ご意見
 http://www.nsc.go.jp/toi/toi.htm

 ●文科省 子どもの学び支援ポータルサイト お問合せ
 http://manabishien.mext.go.jp/contact_us/

***
追記:「内閣府原子力安全委員会は13日、年間の累積被ばく放射線量について、子どもは年10ミリシーベルト程度に抑えるのが望ましい』との見解を示した」そうです。これでも十分に心配な基準ですが。
http://mainichi.jp/select/jiken/news/20110414k0000m040112000c.html
この記事のURL:http://himar-diary.jugem.jp/?eid=18


2011/04/13(水) 01:49|震災

コミュニティカフェをつくろう

  地震直後から、カフェは大事な役割を果たしていました。
 避難所として。情報と物資の交換の場として。話をする/聞く場所として。

 友人のお店「bookcafe 火星の庭」は、地震の当日から「ミニ避難所」になっていました。電気・水・ガス・交通が止まり、余震も続く中、それぞれの自宅も大きくひびが入り不安だけれども避難所も入りきれない。食料や水、灯油などを持ち寄って20人余りが出入りしてお店で生活したそうです。新聞各紙や生活情報を貼り出したりもしました。夜にはライブもやってお店のサイトにアップしました。その後、ライフラインの復旧に伴ってみな家に帰り始め、お店も(ガスは復旧しないままですが)再開しました。届いた物資をあちこちに分けたりもしています。
 近所のシネマカフェ「右岸の羊座」も、ガスは出ないままでしたが(大家さんに建物の安全確認をしてもらった後)3月末にお店を再開しました。お客さんから「みんなの顔が見たい」という声があったそうです。「ぽっと・らっく(持ち寄り)カフェ」として、100円コーヒーを出したり、持ち寄った食材で料理をしたり。今までのお客さんが連日、顔を出すだけでなく、近所の方、通りすがりの方もいらしています。地震以来、安否確認や片付け、食料など生活必需品の調達で必死でしたが、そうして家にこもっていた人が、ホッとする場所、話をする場所が必要なのでしょう。
 とりわけ女性客の利用が増えているそうです。自分の事よりもまずは家族や被災した親戚の生活を支えている女性が多く、同じような状況の女性が語り合う場としても利用されています。4月10日(日)昼からは歌手のあがた森魚さんの「緊急お見舞いライブと座談会」を右岸の羊座はじめ他2箇所で開催し、参加者からのカンパの一部を利用してこちらも女性に焦点を当てた支援を行いたいと考えています。
 「書本&cafe magellan」も、地震から10日余りでお店を開けましたが、意外に「一見さん常連さんで賑わい」だったそうです。
 私自身にも人と話をする「場」が必要でした。地震から1週間くらいで電話がつながりやすくなって以降、まず早口での長電話が増えました(聞いてくださった皆さん、ありがとうございます)。一人暮らしが3週間以上となり、家で一人でご飯を食べているのもよくないのでしょう。友人たちと顔を合わす場所があってありがたいです。

 カフェでは「譲ります/譲ってください」の物資のやり取りもあります。仙台は物資の流通が良くなり、買物にはほぼ不自由しなくなりました(地震で電化製品が壊れた人も多いのでしょう。平日の昼間でもヨドバシが混んでいたので、私もまだ壊れたプリンタ、トースター、ミシンを買い直していない、などありお金もかかりますが、、、)。でも、沿岸から仙台に移住してきた人は、津波ですべてが流され生活用品が何一つありませんが、買いそろえることも大変です。お店を媒介に、いくつかの移住家族に一部の生活用品を渡すことができました。いま「必要なものを必要な量、必要な場所に」は本当に難しいのです。

 そして。いま避難所で歌や音楽が喜ばれていると聞きます。私の周りでも「こんなときだから息抜きや癒しに音楽を聴いたり映画や演劇を見たい」という声を聞きます。でも、いま、仙台市内は、ほぼすべての文化施設が機能していないのです。仙台市民会館、宮城県民会館、仙台市メディアテーク、青年文化センター、戦災復興記念館、宮城県美術館、仙台市博物館、エルパーク仙台、、。映画館、音楽や演劇、映画のためのホール。市民活動や文化活動の場になっていた、貸室のある市民センターなどの公共施設。地震のためことごとく休館しています。しばらく開館の見通しもありません。

 「場所」がなかったらつくるしかない。ホッとするのに、食べ物/飲み物も重要です。
 まずは、悲しみを受け止める場所を。そして、市民一人一人が、新しい仙台を考え、発信していく場所を。
 いつでも誰でも気軽に行け、市民の拠点となるコミュニティカフェを仙台の中心部につくりたい。
 そう思って、友人・知人たちと、持っているネットワーク総動員で動き出しています。情報掲示板をつくろう、アートセラピーのワークショップをしよう、、、アイデアは次々とわいてきます。それをやれる若い仲間たち(!)もいます。いま、一人一人が持ってる想い、力を分け合うことが、その場所が大事だと思っています。「場」ができれば動き出します。
 発起人5人で具体案を詰めています。ご協力よろしくお願いいたします。

追伸1:県外の皆様から「必要な物はありませんか?」の声をよく頂きます。いまは(とくに沿岸部)物ではなく人手が足りないようです。ただし、泊まるところがまったくありません。寝る場所・テント・寝袋などは自分で確保する必要があります。先週末、県外の知人の親子が2日間、私のうちに泊まって宮城県沿岸部の片付けのボランティアに行ってくれました。

追伸2:東北のお店から通販で買う、、、古本を買うという手もありました! 「bookcafe 火星の庭」からも「書本&cafe magellan」からも通販で買えます。ちなみに、本屋さん、図書館などは、本、本棚が崩れまくりで再開に時間がかかっています。
この記事のURL:http://himar-diary.jugem.jp/?eid=17


2011/04/09(土) 14:49|震災

自分ができること

  自分が何ができるか。地震の直後から多くの人が考え続けているようです。私も、最初、自分にできる多くのことがありながら(あるように見えながら)優先順位がわからない、と思いました。結局のところ、目の前のできることをやっていくしかなかったのですが。それぞれの場所で、それぞれの人がいろんなことをしているでしょう。以下は私の場合です。

 地震の翌日は、まだ原発も爆発していなかったし、津波被害もよく知らず(ラジオは聞いていましたが、停電でテレビもネットも見られませんでした)、今思えばわりと明るい気持ちでした。公衆電話に行くついでに歩き回って情報収集。外出のたびに何か「プチ人助け」できておかしいくらいでした。簡単なところでは、順番を待っている人に公衆電話のかけ方を教える。災害のため公衆電話が無料でかけられるようになっていましたが、電話のかけ方が電話機によって違ったのです(お金を入れずに受話器を取るとすぐつながる/いったんお金を入れるとつながる。電話を切ってからお金が戻ってくる/お金を入れてから緊急の赤いボタンを入れるととつながる。/この3パターンがあったようです)。
 迷子の受験生も案内しました。山形の女子高生。岩手の大学に受験に行く途中、仙台駅で地震に遭い、一晩を数百人の人と仙台駅地下で過ごしたそうです。その後「近くにいくつも避難所があるから」と地図を渡されて出たそうですが、初めての街で地図一つで避難所にたどり着けるわけがありません。山形の実家にも電話が通じない(最初の数日間、東北地域同士は全く電話が通じませんでした)。地震以来パン一つしか食べていないと言うので、とりあえず私の自宅でリンゴを食べて休んでもらいました。その後、電話が通じた祖父に「タクシーで帰ってこい」と言われたというので、仙台駅方面に歩いて送りました。
 後は、近所の避難所(小学校)に野菜やお米、灯油を持って行ったり、持っている食料を近所で分け合ったり。電気も水も出ず大きな余震も続いてたため、近所のほとんどの人が避難所に行っていました。野菜もお米も近所の人(避難している人たち自身)が自宅から避難所に運んでいました。そこには4、5日経っても外部(他県)からの支援は届かず、また、「お鍋が一つしかなくて、たくさん作れない」と言っていました。ただ、ここの避難所では、ライフラインが復旧するとみな少しずつ家に帰っていきました(ガスは4月9日現在、まだ出ませんが。隣接する地区でガス管がだいぶ破壊されているため、自宅周辺は復旧の気配もなしです)。

 3月14日に自分の子どもを関西に難させた後は、ボランティア登録をして沿岸に入ろうか、それとも近所を回ろうかと思っていました。しかし、交通手段も復旧しないまま、福島原発の状況は悪化していきました。物流もライフラインも復旧しない。3月25日のブログで書いたように、いろいろな葛藤がありましたが、15~17日に仙台と近郊の子どもたちを中心に交通アクセスの良い新潟経由で避難させました。

 そして地震から10日余。新潟滞在から仙台に戻って、さて、何が必要かと考えたとき、中・長期的観点から「場づくり」だと思いました。最初のブログに書いたように、仙台では、みな「沿岸部に比べたら仙台はたいしたことがない」と言い続けていたので、いずれ気持ちを吐き出す場所が必要になると思いました。自分自身が、誰かに話をしたくなっていました。それから、地震直後から支援に走り回っていた友人・知人たちがほっとする場所も必要になると思いました。他にも「場づくり」が必要な理由はいろいろあります。また、これは普段、フェアトレード商品を販売している私のネットワークの中で始められることでした。
 「場づくり」について書こうとしのですが、前置きが長くなりました。「場づくり」については別投稿します(出し惜しみしているわけではないです!)。
この記事のURL:http://himar-diary.jugem.jp/?eid=16



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