2011/04/09(土) 02:10|震災

第2段階へ

  昨日も書きましたが、ライフラインも徐々に復旧し、やっと気持ちも落ち着いてきたところに、また大きな地震。今日、みんなの話を聞くと(私もですが)けっこうがっかりしています。張りつめていたものが、ぷちっと切れたのでしょうか。片付け終わったとろで、また片付け直し、というのも哀しいところです。特に、ようやく少しずつ開き始めたお店には冷や水をなりました。ため息をつきながら、でも、また再スタートです。

 緊急支援物資は、いま、あるところには余っている、ないところには全くない、という状況が続いているようです。一方、「これがない」と言うと、今度は集まりすぎる、、、ということが起こっています。仙台の友人・知人たちが団体として、個人として、細かいところを回っています。地震前からの活動ネットワーク、友人ネットワークなどが生かされています。パレスチナ・オリーブに頂いた食品の一部も、そういうつながりを通じても活用させて頂いています(そして、私が嬉しかったように、走り回っている仙台の人たちにもホッとするのが必要なはず、とコーヒーやお菓子を回しました。また、私もお昼ご飯がいい加減になっていましたが、他の人たちもお昼ご飯を抜いているようです、、、)。
 地震を機に新しく始まったものもあると思いますが、パッと動けけるのは、これまでの活動内容・ネットワークを生かしたものなんだなと感じました。書いてみると当たり前のことですけれども。NGOの人たちも、それぞれの得意分野を生かして沿岸などへ支援に入っています。そうすると私の得意分野は緊急支援ではない。そして、仙台在住ということを生かした地元の支援をしようと思いました。

 そろそろ緊急支援から次の段階に入り、県外から物を送って頂くより、むしろ、お金を送って頂いて東北の地元のお店から物を買った方がいいだろう、という時期のように思います。
 簡単に比較してはいけないかもしれませんが、例えば、国際援助では、ガザの農家から買い上げた生産物をガザの必要な人に配る、とうような方法があります(「貧者から貧者へ」プログラム)。
 あるいは「東北の物を買ってください」「お花見自粛ではなく、東北のお酒、おつまみを買って花見をして下さい」。そんな声が聞こえてきます。私もそう思います。そして、4月末には飛行機も新幹線も動き出しそうです。東北の温泉地、観光地に遊びにきてください。(→追記へ)

 さらに。避難所、避難先、移住先での雇用を生み出していきましょう!と思うのですが、農業者・漁業者の皆さんが土地を離れるというのは大変なことだと改めて思います。そして、空・土・海が放射能で汚れていくことを考えるとますます辛いです。

 追伸:昨日(8日)になって初めて「仙台市の行方不明者数3400人」と発表がありました。仙台市内でそんなにいるとは、かなりショックな数字です。

追記:早速、宮城のものを買える通販サイトはないかとお問い合わせを頂きました。まず、良く知っている仙台のお店を紹介します。こだわりの宮城や山形の食品を扱っています。地震ではお店のお酒が割れてしまい大変だったそうですが、すぐにお店を開けて頑張っていたそうです。おいしいです。
(有)佐藤商店 オンラインショップ
この記事のURL:http://himar-diary.jugem.jp/?eid=15


2011/04/08(金) 01:21|震災

再び大きな地震

  またも大きな地震が来ました。仙台も震度6。

 仙台市内は広い範囲で停電中ですが、自宅もパレスチナ・オリーブもかろうじて停電しておらずネットがつながっています(道路1本挟んで停電中です)。でも電話も被災地同士はつながりません。交通もすべてストップしています。前回、本棚から落ちた本もやっと片付けたのにまた全部落ちてしまいました、
 余震が1ヶ月続いた上の強い地震だったためか、またもあちこちで建物の外壁がはがれたり、ブロック塀が倒れたりしています。パレスチナ・オリーブの入っているビルも、宮城県庁も仙台駅も水漏れしています。火災が発生し、地震による負傷者も出ているそうです。自宅にいても救急車の音が絶え間なく聴こえています。
 宮城県の女川原発(仙台から25km)で、外部電源が3系統のうち2系統で遮断されています。青森県の六ヶ所村の再処理工場と東通村の東通原発でも外部電源遮断が遮断され、非常用ディーゼル発電機が稼働。

 とりあえず、いざとなったら逃げられるように荷造りします。ガソリンも入っています(高速道路は通行止めですが)。

 復興に向けて長い道のりに入り始めたと思ったときの大きな揺れ。ライフラインも止まって、みんな精神的なショックが大きいだろうと思います。私も前回(3月11日)は何も怖くありませんでしたが、今回は足が震えました。暗い中で津波避難をした人たち、福島原発で作業していた人たちの怖さは想像もできません。

 取り急ぎ。

「7日深夜に起きた余震では、東北地方の複数の原子力施設で外部電源からの電力供給が途絶した。このうち東北電力東通原発1号機(青森県東通村)では、復旧した外部電源で核燃料の冷却はできているものの、非常用ディーゼル発電機3台がいずれも使えない状態が続いている。また東北電力女川原発1号機(宮城県石巻市、女川町)でも、非常用ディーゼル発電機2台のうち1台が今月1日から故障したままという。」

「東北電力によると、東日本大震災で全3基が停止中の女川原発(宮城県女川町、石巻市)は7日深夜の地震後、点検中の1回線を除く外部電源4回線のうち3回線が遮断され、残った1回線で原子炉などの冷却を継続した。ただ使用済み核燃料貯蔵プールの冷却系統が自動停止し、再起動するまで最大1時間20分間、冷却機能が喪失していたことが確認されており、東北電は自動停止の原因を調べている。
 外部電源の回線は復旧作業などに伴い、8日午前10時現在で2回線を確保。放射線を監視する敷地内のモニタリングポストの数値などにも異常はないという。
 東北電によると、使用済み核燃料貯蔵プールの冷却系統の停止時間は1号機が52分間、2号機が1時間20分間、3号機が58分間。その間、プールの水温上昇はほとんどみられなかったという。
 地震の影響では、原子炉建屋の使用済み核燃料貯蔵プールから床面に水が一部あふれるなど、1〜3号機の建屋の計8カ所で最大3.8リットルの水漏れが確認された。外部への放射能の影響はないという。」

この記事のURL:http://himar-diary.jugem.jp/?eid=14


2011/04/04(月) 22:07|震災

復興へ?

  地震から4週間目に入りました。
 仙台には2週間何もありませんでしたが、3週目で多くの物資が入ってきて買い物ができるようになりました。ガソリンは昨日、突然手に入りやすくなりました。数日前まで仙台中心部では夜中に並ばなければならなかったのに。動きたいときに動くことができる、物が運べる、ということで少し気持ちがほっとしました。放射能のことがなければ少々遠くても自転車で動くのですが。実際、自転車で通勤する人たちが増え、自転車がよく売れているそうです。普段なら省エネで健康的といえる話ですが、すっきりせず残念です。いずれにしろ、地震から4週目、いま第2段階に入ってきたと思います。
 ガソリンが十分回ってきたことで、沿岸への細かい支援も進むことを願っています。

 「羊羹が嬉しかった」と書いたためか、幾人もの方から和菓子が届きびっくりしました。どうもありがとうございました!! なかなか報告できずにいるのですが、「場づくり」企画進んでいますので、頂いたお菓子は(自分で食べるだけでなく!)大事に使わせて頂いています。

 仙台市内中心部では、少しずつデパートなども開き始めていますが、古い商業ビルの中は倒壊の危険のため立ち入り禁止になっているところも多く、まだ閉まっているお店も多くあります(まだ毎日、中規模の余震があります)。とくに飲食店はガスも出ないことから通常営業ができず、プロパンガスを使って料理したものを路上で売っていたりします。家賃の高い仙台の街中で、通常営業ができずに3週間以上というのは経済的に大変厳しいことです。
 近所の魚料理屋さんは、地震の翌日からプロパンガスでつくったご飯や魚のフライをお店の前で販売してくださってとても助かったのですが、いまも同じスタイルで販売しています。地震で業務用冷蔵庫が壊れたがそういう部品の倉庫が津波で流され、東京から部品が来ないと通常営業できないとのだそうです。
 今日、10月に民事再生法での再生を申請していた仙台のケーキ屋さんが、地震で店舗や工場が被害を受け、再建を断念した、というニュースが流れました。学生のときにはケーキバイキングに行ったこともあるケーキ屋さん。ただでさえ、長引く不況で東京資本のお店、外資のブランド店が増えていた仙台の街。地震によってますます仙台のお店がなくなっていくのは残念です。
 ライフラインも復旧の見通しがなく、仮設住宅の建設も半年以上かかるということで、宮城県北部沿岸部から内陸の市町村へ、行政による集団移転が始まりました。その一方、親族を頼って仙台に移住する人も増えてきています。仙台が雇用もカバーしていければいいのですが、経済的にその底力があるのか心配なところです。

 話が変わりますが。
 仙台市内でも高校や大学は大幅に始業が遅れるのですが、小中学校は11日に始まります(宮城県沿岸部の市町村では4月いっぱい休みのところもあるようです)。ただ、ガスが復旧していなかったり給食センターが壊れたりしているために給食を始めることができず、しばらくは(4月いっぱい?)午前授業となります。いま避難所となっている近所の小学校も、避難者が減ってきたこともあり11日までに避難所は閉鎖の予定なのだそうです。
 息子を仙台に戻すのか、他の県で学校に通わせるのか(4月は学校に行かなくてもいいと思うのですが、昼間行くところもなく)。まだ決めかねています。
この記事のURL:http://himar-diary.jugem.jp/?eid=13


2011/04/02(土) 00:34|震災

お風呂とトイレとパレスチナ

  地震から3週間。まだ余震が続く毎日です。
 仙台市ガス局のホームページを見るのが仙台市民の日課になっています。ガスの供給再開地域が毎日更新されるのです! 仙台の人はそんなにパソコン使わないんですけど(地元の新聞にも載ります)。どうやら私の住んでいるところは一番最後になりそうな気配です。
 「放射性物質を洗い流すようにしましょう」と言われるけれど、ガスが止まっていてシャワーも浴びられないし、下水処理場が壊れているので、なるべく排水を減らさなくてはいけない。

 私の近所(?!)でお風呂が入れそうなところは、自転車で1時間弱かかるフィットネスクラブ。特別に会員でない人にも入浴サービスをしているそうです。放射能を流しにシャワーをしても、またくっつけて帰ることになると思うと悩みます。車で行くにはガソリンがないし。バスに乗るには長時間並ばなくてはなりません。たんに体の汚れを流すためとしても、入浴できる施設は、どこもまず整理券をもらう順番待ちと聞きます(みんな放射能のことを気にしているわけでなく、3週間お風呂に入っていないので行きたいだけです)。
 明日こそ、あたたかい時間帯に(お風呂場が寒くない時間に)、電気ポットで暖めたお湯を体にかけるしかないです。、、、というところで、10年以上前のパレスチナでのことを思い出すのです。

 パレスチナに行くと、太陽光パネルのように温水パネル(?)が建物の屋上に何枚も並べてあります。太陽光パネルのような長方形の平たいパネルに水が入っていて、太陽光で暖まるのです。
 パレスチナ(ヨルダン川西岸地区)の大学に短期留学して、小さな村に女子学生たちと学生アパート(今で言うシェアハウス?)に住んでいたときのこと。
 天気の良い乾期(4月〜9月)には、熱いくらいのお湯が出ます(パネル分以上に使いすぎれば水になります)。でも夜になれば水は冷えます。体を流すのはぬるま湯/冷水のシャワーで良くても髪の毛を洗うのは暖かい方が良くて。休日の昼間、週に1回だけ髪の毛を洗っていました。バスタブもなないところが多いです。あっても誰も使いません。
 冬は、水があまり暖まりません。鍋でお湯を沸かして風呂場に運び、水と混ぜて体にかけていました(パレスチナ女子学生のまねをしました)。

 パレスチナでも最近は、中間層以上では、シャワー用の温水をガスで暖める家庭も増えてきました。ただ、種火をつけっぱなしにはしないので「シャワーを浴びたかったら先に言ってね。お湯になるのに20分かかるから」と言われます。いずれにしても、水が高いし、習慣としても、夏でも毎日シャワーを浴びたりはしません。私もパレスチナの友人・知人宅に泊まるときには遠慮して、シャワーをすることはほとんどありません。
 それで東エルサレム(パレスチナ側)のホテルに泊まるときにシャワーを浴びます。水量も少ないし、温度も安定しないで熱くなったり水になったり。でも、以前はお湯が出なかったので、出るだけ嬉しいです。

 仙台のトイレ事情は。地震直後は、水も止まって避難所のトイレがあふれて大変なことに、と聞いていました。いまでも、一部の断水地域では汲み置きの水でトイレを流しています。私の自宅も含め水道が復旧している地域では、家からは普通に排水できていますが、上述したように実は浄水センターが壊れていますので、排水を控えるように言われています。知人のカフェはプチ避難所のようになっていたのですが、排水を減らすためになんとペットの猫用の砂を利用! 私、そこまで頑張っていないです。私や友人たちは、トイレットペーパーを流さずにゴミにしたり、毎回流さずためてから流したりしています。あ、これもパレスチナと同じ。通信『ぜいとぅーん』41号で書きました(ちなみに、もともと和式に似た形のトイレでしたが、町では洋式も増えています。また、水圧/水流が弱くつまってしまううので、トイレットペーパーはゴミ箱に捨てます)。

パレスチナではどこの家でもお客が来ると紅茶やコーヒーを出します。夏には水もジュースも出ます。すると(飲みすぎないように気をつけてはいても)水の価格が高いパレスチナではトイレは使いたくないのに、トイレに行きたくなってしまいます。以前はトイレに壺のようなものが置いてあって水を流すことが多かったのですが、最近は、見た目は日本と同じ水洗トイレが増えて来ています。でも、タンクの水は入っていなかったり、家族で何人分かの用足しが終わってからまとめて流したりしているようです。トイレを借りようとすると、「ちょっと待って」と言って、流れているかどうか見に行きます。

 一見、普通のようで実は、、、というところまで、なんだか、いま仙台とパレスチナは似てしまっている気がします。毎日水汲みに励んでいた知人は、(スタディーツアーで目にした)アジアの少女を思い出した、と言っていましたし、(いわゆる)途上国に共通することなのかもしれませんが。


 皆さんから体調を気遣うようなメールも頂いていますが、考えてみると(意識もしていなかった)、胃腸の調子も良く、風邪も引いていません。お風呂に入っていないためか、しもやけがひどくなったくらいです(ここ、笑うとこです!)。先日、近所の避難所(小学校)では、子どもがよくかかる嘔吐下痢症が流行っていました。関東・関西の方からも体調悪い、と聞いたりします。皆さん、心身ともにお大事に!

 原発事故と地震・津波災害でニュースはいっぱいで中東のことは全く報道されていませんが、チュニジアに始まった中東の動きは続いています。東京外国語大学の「日本語で読む中東メディア」がとても参考になります。
この記事のURL:http://himar-diary.jugem.jp/?eid=12


2011/03/29(火) 00:08|震災

ネパリ・バザーロさんの来仙

  フェアトレードの大先輩、ネパリ・バザーロの皆さんが、釜石の帰りに仙台に寄ってくださいました(釜石での支援活動についてはネパリ・バザーロさんのサイトをご覧ください)。
 あーすらいふ仙台の方とも一緒に、ネパリ・バザーロさんに仙台での中・長期的な取り組み、「場づくり(カフェ)企画」の相談に乗って頂きました。また、ネパリさんが集めてくださった支援物資も頂いてしまいました。仙台市沿岸の津波被災地にふさわしいもの(衣類等)、仙台市内で必要なもの(ガスボンベなど)、カフェ企画にふさわしいもの(クッキーセットなど)などありましたので、有効に使わせて頂きます。どうもありがとうございました!! お会いできたことだけでも、前向きな暖かい気持ちになれました。実は、お会いした仙台市市民活動サポートセンター(今日から再開)は、地震で暖房システムが壊れていて若干寒かったのですが。ネパリ・バザーロさんのスタッフやボラティアの皆さんの寄せ書きもとても励みになります。

 その中で私がもらって良さそうで個人的に嬉しかったものは、、、羊羹。これで、しばらく頑張れる! 「被災地」で必要なものは日々変わるものです(沿岸に比べれば仙台なんて軽い「被災地」とみなが言っていますが)。
 始めの3日間は、電気もなく、キャペツや白菜を生サラダにしたり、リンゴを食べたり、チョコレートをかじったりしていました。主食が食べたかったです。もちろんお店はみんな閉まっていました。電気が通った後も、自宅には電気釜もなくまだご飯が食べられない(地震前は土鍋で炊いていました)。またリンゴか、、、電子レンジで温めて、(ネパリ・バザーロさんの!)シナモンをかけてみるか、、、と思ってハッとしました。「パンがなかったらケーキを食べればいい」 卵も牛乳もありませんでしたが、小麦と豆乳とリンゴ、シナモンを使ってオーブンレンジでケーキを作りました。久々に暖かいものを食べて大満足でした(1週間前に青森の友人から頂いたリンゴがあって助かりました)。
 その後、「福島原発のこと」で書いたように、いったん新潟へ。それ以前に夫と子どもを山形空港に車で送ったときには、近所の避難所向けの物資を詰め込んで仙台に戻ったのですが、新潟から戻るときは高速バス。少なくても自分が必要なものは自分で用意しようと(仙台で並んで買ったら他の人の分が減るので)、カセットコンロと電気釜と電気ポットを手に持って仙台に帰りました。これで、ご飯が食べられるようになりました。また、いつも野菜を配達してくださっている宮城県北部の農家の方が、こんなときにもガソリンをかき集めて野菜と卵を持ってきてくださって大感激(卵は仙台市内でかなり品薄です)。
 そうなると人は贅沢なもので。今度は甘いものが食べたくなってきました(私は、もともと甘いもの好きなのですが)。ストレスがたまってきたこともあるでしょう。でも、お店の棚は空っぽ。
 話が長くなりましたが、そんなときの羊羹だったのです。まだもったいなくて開けていません。
この記事のURL:http://himar-diary.jugem.jp/?eid=11


2011/03/28(月) 22:27|震災

今日の仙台の様子

  地震から2週間以上経ちました。
 週明けの今日、月曜日から、やっとやっと物が入ってきた気がします。先週まで、仙台市内の中心部でさえ、スーパーやコンビニエンスストアが閉まっていました。例えば「25日は14:00から開きます」とSEIYUに張り紙がしてある。その時間の前に行列ができて、売り切れて、終わり。今日も、さっきまで開いていたコンビニが数時間後に見たら閉まっていたりしましたが(仙台市中心部の商店街で、です)。
 そんな中、近所の小さな八百屋さんには、ある程度、野菜や食品があって助かっています。個人商店の方が比較的開いているようです。ただ、私は幸いにもいま一人暮らしになっているのでそこで間に合っていますが、子どもと夫がいたら、私も毎日、行列に並んで食料や日用品の調達に走り回らなければいけなかったと思います。また、小さい子がいる人も足腰が弱くなった年配の方が並ぶこともできません。普段は別でも、いまは家族分の食料調達が自分の係、という友人たちがいます。ガソリンもまだ不十分で、車で買い出し、、、も無理です。
 ガソリンはまだまだ100台以上が並んでいるような状況で、少し入荷して売り切れて終わり。地震当日、仙台市内で(津波ではなく)地震のために壊れたガソリンスタンドもいくつも見かけました。沿岸の実家の様子を見に行きたい、親族を捜したい、という切実な方がガソリンスタンドに並んでいらっしゃるようなので、私はまだ遠慮しています。通勤のために並んでいる人もいそうですが。

 さて、都市ガスは。最初は数ヶ月かかると言っていたのが早まるというニュースで、私の住んでいる地区は25日(金)となっていたので、とっても喜んでいたのですがぬか喜びでした。25日から検査・修復にとりかかり、1ヶ月〜1ヶ月半かけて徐々に復旧するそうです。お風呂入りたい、、、。電気ポット(地震後に実家から持ってきた)でお湯を沸かして水と混ぜて浴びるしかないな、と思って(でもお風呂場が寒くてそれもできていないのですが)、10年以上前にパレスチナでそうしていたのを思い出しました(お湯はガスでわかして)。その辺のは話は、いずれ別投稿します。

 JR仙台駅はニュース映像を見ると、天井も落ちて悲惨な様子です。東北新幹線の仙台〜東京は「早ければ4月末にも復旧します!」とニュースで明るく言っていましたが、それって「早くても4月末に復旧」ということですよね。ものは言いよう、と思いました。地震後、初めて(一部区間で運転している)地下鉄に乗りましたが、「全面復旧は5月下旬の予定」と書いてありました。なかなか長い道のりです。
この記事のURL:http://himar-diary.jugem.jp/?eid=10


2011/03/26(土) 22:41|震災

プリンタの置き場(地震当日)

 
 パソコンラックの上部にプリンタを置いていませんか?
 いますぐ、低い場所に置きましょう。そうでなければ、地震の際にプリンタが吹っ飛ぶ可能性を考えておきましょう。

 仙台では、建物が壊れなくても、ほぼすべての住宅や事務所で、物が落ちて壊れました。本棚や食器棚自体が倒れたかどうかは、建物の場所によって違ったようです(同じビルの中でも、端っこの方が揺れにくいなどあるようです)。
 パレスチナ・オリーブでは、奇跡的に(重くて安定しているからか)オリーブオイルの箱はすべて無事でした。机の上にあったパソコンとプリンタも無事でした。本棚のファイルやCDは当然落っこちましたが被害はありませんでした。
 自宅では。パソコンラックの上にあったプリンタ兼スキャナーが吹っ飛び、スキャナーのガラス面が粉々になりました。机の上のミシンも落っこちて壊れました。いなくて良かった、、、。地震が10分早かったら怖いことになっていたでしょう。パレスチナ・オリーブのスキャナーが壊れていたので、13日のパレスチナ訪問報告会の準備のために14時35分まで自宅で写真をスキャナーで読み込んでいたのですが、15時に約束があったので自宅を出て、地震のときには、ちょうどパレスチナ・オリーブの入口に着いたところだったのです。だから、地震の数分間。とりあえず座り込んでドアを開けていました。そしてオリーブオイルが無事だったことに心から安堵しました。沿岸部で津波が起こり大変な被害をもたらすとは知らずに。
 子どもはパレスチナ・オリーブの目の前の小学校に通っているので、夫がすぐに迎えに行き無事を確認。地下鉄も電車も何もかも止まったので、私は自宅に車を取りに行き、スタッフ2人をそれぞれの家(と家の近く)に送りました。ラジオでは「家族が心配でだと思いますが、運転はせず、その場にとどまり自分の安全をまず確保してください」と繰り返していましたが、まったく電話も通じない中、無理な話です。余震は続いているし、信号は止まっているし、あまり知らない道だし、大渋滞していたし、帰りは一人で暗い道だったし。地震よりずっと怖かった運転でした(でも「2時間歩いて帰る!」と言っていたスタッフを心配するより、車で送る方が絶対に安心だったので)。15時に出て、自宅に戻ったのは20時過ぎでした。途中で歩いている人たちも多く見かけました。送ってあげた方がいいかも、、、と思いましたが、自分の運転に自信がなく断念しました。

 車の中、ラジオで「若林区で数百人の遺体、、、」というのを聞いて、何かの間違いかと思っていました。パレスチナ・オリーブも若林区にあるため多くの方からご心配いただきましたが、パレスチナ・オリーブは若林区の端っこで青葉区と太白区の3つの区の境目にあります。海までは車で約30分、毎夏遊びに行っていました。私の名刺用紙、タマネギ染めの和紙をつくってくれた「まどか荒浜」も海のすぐ近くです(まどか荒浜のホームページには今後についての緊急の説明会のお知らせが載っています。心配です)。電気が止まって寒い夜でしたが、何より電話が通じないことで友人・知人の安否が不安な夜でした。避難所の小学校には人が入りきれず(1200人が集まったと聞きました)、自宅のマンションにひびが入った友人家族に私たちの家に泊まってもらいました。

 多くの皆様から「必要なものを送ります」と暖かい言葉を頂きました。上記のようにパレスチナ・オリーブには被害がなく、近所の方たちも26日現在どうにかなっているようです(地震直後から、みな尋ねると「うちは大丈夫」というので、どう大丈夫?? 何日分の食料があるの??と思ったりしたのですが、なかなか突っ込んでも訊けず)。ライフラインもこの辺りでは都市ガスと下水以外は復旧しています。仙台市内では断水している地域も3月いっぱいでほぼ復旧の見通しだそうです。ガソリンは相変わらず不足ですが、徐々に入ってきています。仙台市内でも沿岸部は、電気・水道も止まっているようです。
 いま、友人たちと「場づくり」の計画を練っています。これに関しては、今後、ご協力をお願いすることもあると思います。よろしくお願いいたします。

追記(3月31日):「まどか荒浜」は津波被害にあってしまいました。通っていらした皆さんは無事避難できたそうですが、連絡先の貼り紙をしに戻った職員の方が亡くなってしまったそうです。「まどか荒浜」からは和紙だけでなく、、和菓子や蒸しパンを買ったりしていました。写真を見ると信じられない思いです。河北新報の記事
この記事のURL:http://himar-diary.jugem.jp/?eid=9


2011/03/26(土) 20:06|震災

仕事の再開

 
 佐川急便の集荷が始まりました。いつの担当者とは違う方でした。まだ、いつもより広い地域を一人で担当していて、集荷時間もはっきり言えない、という状態だそうです。お届けの日時もはっきりしません。その旨お届け先に確認の電話をしてから、地震当日に出荷するつもりで荷造りも終わっていたものを持っていってもらいました。
 パレスチナ・オリーブでも、まだ、ばりばり(!?)働ける状況ではありません。まだ余震の続く中、暗くなる前には帰りたい(地震から数日間は、5分おきに余震、、、という感じでした。それよりは収まりましたが。いま書いている最中にもまた余震!)。スタッフの一人は県外に避難中。もう一人は、家族のための買い出しのために早めに帰らなければなりません。幸か不幸か、子どもを避難させた私は自由がききますが、さすがに雨にはぬれたくないので、天気予報や空を見ながら帰り時間を決めています。
 オートミールクッキーなどをつくっているコッペさんは、地震の後も操業しています! 地震の数日後には(電気が復旧した後だったと思いますが)「近所の方が買いにくるので、小麦がある限りつくります」と言っていました。1週間余り、水も都市ガスも止まっていて食べ物は全く売っていませんでしたので、コッペさんの近所の方は本当に助かったと思います。さすがに、事前に入っていた大口の注文はキャンセルしてもらったりしたそうですが。その後「卵と生イーストが入らない、、、」と言っていましたが、確保の目処がついたそうです。また、配達のガソリンも確保できそうだというので、コッペさんのクッキーもご注文いただけます。
 仙台の食べ物屋さんはほとんど閉まっていますが、プロパンガスのところは(ある分以外は手に入らないそうですが)、地震の翌日から、あるものをやりくりしてお店の前でご飯やおかずを売っていたりするようです。パレスチナ・オリーブの近所にもそういうお店が1件あって助かりました(伊藤屋さん、ありがとう!!)。
 地震で仕事を失った方も多くいらっしゃいます。友人でも自宅は無事だけれど職場が津波で流されてしまった、という人がいます。カフェを再開できないでいる友人たちもいます。日常を取り戻せますように。
この記事のURL:http://himar-diary.jugem.jp/?eid=8


2011/03/25(金) 15:41|震災

福島原発のこと

  地震だけだったら、こんな複雑な気持ちにならなかったのに。みんなで助け合って一緒に復興を目指すはずだったのに。

 関東で水道水の放射能汚染が問題になっています。空気中の放射線測定値が東京よりずっと高い宮城県の水道水は?? 計っていないのです、、、。地震で検査施設が壊れたと言っています。本当に壊れたのが理由なら2週間も経ってるのに怠慢だし、数値が高くて発表できないだけでは?と疑いも捨てきれません。まさか、とは思うのですが。
 水道水を料理に使おうかどうしようか、悩んでいます。実際には、ペットボトルの水が手に入ったときは使い(たまたま見つけたら買い、探して並んで買ったりはしていません)、そうでないときは水道水を使うという中途半端なことをしています。大人である自分が買っていいものか。外に出るたびカッパを着たり服を着替えたりするのも、50歩100歩のような気がしてやったりやらなかったり。そもそも、そんなに気にするなら遠くに行けばいい。仙台にいると決めたのだから覚悟を決めればいいのに。矛盾した気持ちでぐちゃぐちゃです。外に出るたび、料理のたびに悩んで決断することに疲れても来ました。

 避難するか、避難しないか。どちらの選択をした人も苦しんでいます。
 私自身は、高い数値が出ている福島県の一部はもちろんのこと、福島原発から95kmの仙台とそれより高い数値の出ている宮城県南の人たちは、避難できる人は避難した方がいい値が既に出ていると思っています。本当はみんなが遠くに逃げられるならそうした方がいい。子どもがいてもいなくても。
 でも、家族がいたり、仕事があったり、動けない人も多い。子どもがいるから避難した、でも自分たちだけ逃げたという罪悪感を持っている人たちがいます。子どもがいるけれど避難できないことに不安を持っている人たちもいます。正解なんてないし、罪悪感なんて持つ必要がないのだけれど。理屈はわかっても気持ちはわりきれないのでしょう。
 私は、夫に託して子ども(7歳)を関西に避難させ、自分は仙台に残るという選択をしました。仙台でやることがあります。育児を放棄し、避難するという罪悪感を逃れるずるい選択です。でも私にはこれしか考えられませんでした。

 原発のことがなくても、小さな子どものいる人は避難した方がいいと思いました。まず物資が不足しているから。避難できる人が被災地から出れば、その分他の人に食料が回ります。また、小さい子どもがいると避難所暮らしも大変だし、食糧を手に入れるため長時間並ぶのも無理。ライフラインの復旧は遅い(遅いのは被害がひどく範囲が広いためで、現場の技術者の皆さんは頑張ってくださっています)。地震直後の仙台から避難する唯一の交通手段であった山形行きのバスに乗るには、寒さの中何時間も並ばなければならず子連れには無理。さらに、子どもがいれば支援にも動きにくい。一時的にでも仙台を離れた方がいいと思いました。
 でも、交通は限られているし、ガソリンはない。仙台やその近郊から避難したくても出る方法がなくあきらめている人たちがいました。だから、小さな子どものいる家族を中心に声をかけ、仙台から山形経由で新潟に行くバスをチャーターして乗ってもらいました。新潟からは飛行機も電車も通常通りに動いているのでどこにでも行けます。関西で夫と友人たちがカンパを集めて、17日、18日、19日で計5台のバスがチャーターできました。関西では避難した方の受け入れもして頂いています。私は実家のある新潟でバスを待ち、その後の交通や宿泊の案内をしました(友人と両親がサポートを手伝ってくれました。ありがとう!)。その後、交通網が復活したのでこの活動は終わりにし、私も新潟から仙台に戻りました。
 でも。この活動は家族に悩みももたらしました。バスに乗るか乗らないか、多くの方が悩みに悩みました。電話で泣き出してしまった方も複数いらっしゃいました。迷いに迷ってバスに乗った人、乗らなかった人は半々くらいでしょうか。年配の両親を置いていけない、そう言った人も多くいます(ご両親も一緒にどうぞ、と言いましたが、住み慣れた土地を離れる年配の方はいませんでした)。仙台を動けない人も多いのに、チャーターしたバスの案内をすること自体、避難できない人たちを傷つけるのではとも思いました。実際、不安を与えた面も否定できないでしょう。でも、避難したくてもできない人たちがいた以上、やらないという選択肢もありませんでした。カンパをして頂いた皆さんに大変感謝しています。

 福島市などはもう避難地域にするべきでしょう。そう政府に申し入れをしている人たちもいます。避難するかしないか悩み苦しむ人を減らすためにも、政府の定める避難地域をもっと広げてほしいと思っています。

 私は、原発にも再処理工場にも反対していきました。自分ではなかなか動けませんでしたが、多くの友人たちが、原発・再処理工場のない社会を目指してがんばって活動してきました。こんなことになって悔しくてたまりません。

 そして。仙台あたりでは、まだまだ安否の確認や生活物資の確保が大変で、放射能の心配どころではない人がほとんどなのが現実です。この記事もアップするか悩みましたが、現状をお伝えしようと書きました。

追記1:
 夕方のニュースで、今日25日から宮城県でも水道水と一部の野菜の放射線測定を始めたと言っていました。

追記2:
 ハイロアクション福島原発40年実行委員会は、2011年3月26日〜2012年3月26日までの1年間を「ハイロ(廃炉)アクション年」にしようという呼びかけに集まった福島県内各地の有志により、2010年11月23日に結成されました。2011年3月26・27日にいわきでオープニングイベントが行われる予定で、私も賛同していました。
この記事のURL:http://himar-diary.jugem.jp/?eid=7


2011/03/24(木) 19:44|震災

パレスチナからの電話

  日本の多くの皆様からもご心配の連絡を頂きましたが、その前に、パレスチナ地域からたくさんの電話がきました。
 3月12日夕方。まだ、固定電話がつながらず、私のPHSからも誰にもかけられず。仙台市内、東北地域の誰とも電話連絡がつかない段階でした。そこに、「地震直後から、ずっと電話していたよ。やっとつながった!」とナーブルスの石けん工場のマジュタバさんから電話が来たのです。国際電話の回線はすいていたのか、優先されていたのか(その後、中国の友人からも電話が来ました)。翌日になると、「ガリラヤのシンディアナ」のハダスさん、サーミヤさん、ロニットさんと次々に電話がかかってきました。心配は嬉しかったのですが、電気が復旧する前でありPHSの充電が十分でなかったので、その後はいったん電話は控えてもらいました。
 電気やネット回線が復旧すると、今度は、「支援したい」と「ガリラヤのシンディアナ」などから連絡がありました。シンディアナのオリーブ農家のアベッドさん、ムギーラさん、事務所兼倉庫で働くスベトラナさんやトゥージャーンさん、みんなが気にしてくれているとのこと。パレスチナの厳しい状況は変わらないのだから、私たちのことより自分たちの活動に専念して!とも思うのですが、嬉しい心遣いです。「ヨルダン渓谷ソリダリティー」からもメッセージを頂きました。私は、電気・下水・ガスが止まってるとき、ヨルダン渓谷地域やイスラエル内のアラブ・パレスチナ非公認村の生活を思い起こしていました。一時的に不便だということと、それが日常的であるということは全く違うとは思いますが。
 パレスチナにかかわる他の日本のNGOにも、パレスチナから多くの心配と応援の電話やメールが来たそうです。
 
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